昭和47年5月8日 朝の御理解
中村良一
御理解 第16節
「無常の風は時を嫌わぬというが、金光大神の道は、無常の風が時を嫌うぞ。」
いわば、普通では考えられない、不思議な働きとでも申しましょうかね。まか、不思議な働き、それに、働きがある事を、邪教のように言う人達、または、言う宗教がありますですね。何か、ね。魔術師のような風に、まぁ、こう言う御教えなんかでもそうですはね。ま、普通は、あの、仏教の言葉でしょうけれども、ね。あぁいう歴史を持った、しかも世界で屈指の大宗教であります。無常の風は時を嫌わず。それが、人間が受けていかなければならない定めである。ね。そのところを、特に言えば仏教です。だから、金光大神の道は、その、無常の風がね、時を嫌わす道なんです。だから、例えば、死ぬるとか生きるという事だけではありません。生まれるである、生まれるでも同じことです。ね。もう、何月何日が予定だと。ちょうど、それが、忙しい真っ最中にあるとかと言ったような出来事でも、お繰り合わせをお願いしますと、本当に、都合の良か時と。
例えば、農家で言うならば、例え、それがその、忙しい真っ最中であっても、ちょうど、お湿りの日であったとか。または、ちょうど、取入れが済んだ、麦撒きは、まだと言う、その間とか、という様にですね。もう、本当にお繰り合わせいただくですね。夜、夜中に、さぁ、あの、産婆さん呼びに行くでも、呼びに行けんねと思いよったら、ちょうど良い時間にお繰り合わせを頂いてといった様な事を、お繰り合わせを頂く。同じようなんですよ。金光大神の道は、そういう道なんですよ。それを、お繰り合わせとこう言う。ね。繰り合わせてくださる。ですから、私は、本当にその、繰り合わせていただくと言う、そのお繰り合わせを頂くと言う事がです。金光様のご信心です。それが、言うならば、段々、綿密になってくる。
昨日、朝の特別奉修委員の方達の御祈念の後に、聞いていただいた事ですけれども。ね。その、ほとんどの人が、ここに、お届けをされるのに、もう本当に、昨日、一日の、神様の、一分一厘の間違いないことに、ただただ、恐れ入ってしまいますと言うお届けがあった。そういうお届けが多いです。皆さんも、それを頂いておられるでしょうが。ね。もう、それこそ、不思議なことですよ。ね。もう、それがね、こう、かんまんというかね。時々、そげなお繰り合わせ頂くと言うような時には、もう、信心は、随分、(?)
もう、本当に、日々がですね、日々が、不思議で不思議でたまらん働きの中に、おかげを頂く。それで、そういう、例えば、体験がです。私共の、日々の中に、なる時には、もう、自分の信心が、もう、怠慢になっておるときです。ね。ですから、やはり、そういうおかげを頂けれる信心に、先ず、進ませて頂くという事と同時に、それを体験させていただいたなら、それを、いよいよ、育てていくと言う信心にならなければなりません。だから、信心が進むのです。ね。言うならば、だから、信心が、段々、私共、凡夫の者が、信心を進めていくといった様な事は、とても、普通では出来ません。その不思議な働きに導かれて、信心が進むのです。不思議な不思議な働きに導かれて信心が進む。
例えば、私共の、若先生なんかも、朝の御祈念に、例えば、五分づつでも遅れる様な事が続いたらね。もう、絶対、必ず、お気付け頂きますよ。自分も、気が付いているか、いないか知らんが、恐らく、気が付いているだろうと思います。ね。と言うほどしに、神様が、言うならば、厳格に、そういう、例えば、お気付けならお気付けという事、その事が、不思議な働きなんですよ。だから、その不思議な働きに、導かれて、はぁ、本当に、一分間でもきっちゃならんという事にもなってくるわけですよ。
私共が、ほんなら、四時の御祈念に、これこそ、一秒間だって、切らしちゃならないと思う。ね。ですから、その、そこんところを良く知っておりますから、いわば、三十分も前から、ちゃっと待機しておる。昨日なんかは、先生方、ここへ、みんな出て来とったけれど、眠っとったか何かでしょうたい。誰も出て来ませんもん。ここへ何時も、あの、ふすまが開けて、私を、四時になったら、迎えてくれるんですよね。私が、内殿に入る時。ね。ですから、幹三郎、もう時間だぞと言うてから、お迎えがこんなりに、あの入りました。ね。私共は、そういう所を、言うなら、繰り返し繰り返し、通らせていただいて、なるほど、一分間違や、おかげが一分違うという事。というほどしにです。厳密な神様。それが、段々、信心が、ね。一時間遅れたっちゃ、四時間遅れたっちゃ、ま、例えていうなら、お参りをしなかっても、これは、皆さんの場合、時々参っても、それで、ほんなら、おかげを頂く時代もある。けれども、そういう時代から、段々、お日参りをするようになり、お日参りが、朝参りになり、朝参りも、例えて言うならば、それこそ、一分間でも、遅らしてはならんと、いうなら、節度を持っての、そこにね、そういう不思議な働きを頂くから、そうしなければ、・・・。いうならば、這えば立て、立てば歩めの親心という働きが、不思議な働きになって現れてくるのが、現在の合楽の信心の、進めていけておる、その元になってるです。
皆さんも、色々な意味で、ね。例えば、昨日の、ほんなら、特別奉修委員の方達の場合のこと。まぁ、あの程度の信心を進めておられる方達の場合、もう、それこそもう、日々が、不思議で不思議でたまらん働きの中に、おかげを頂いておる。ね。ですから、まぁ、いうならば、油断も出来なければ、隙も出来ん。けど、高松和子さんじゃないけれども、もう先生、もう、恐ろしいごとありますと、こう言う。話を聞くと、ほんなこて、恐ろしかごとあるのち言うたら、おかげです。ね。どうぞ、そこの、合楽食堂の中村さんなんかが、日々やっぱその、そういう体験を、日々感じていきよりますですね。だから、油断が出来ない。いうならば、信心が、おかげで油断なしに、信心を進めていくことが出来るのです。私は、合楽の場合にはね、この働きが、非常にもう、どこよりも激しいです。だから、信心に、しゃんと、何時も、張りがあると言うか、おかげを頂かなければ、・・・、ね。
ですから、一遍、やっぱ、そういう体験を、本当に頂かなければね、信心は進みませんよ。いわゆるその、無常の風が時を嫌わすほどしの働きというものをです。これを、ほんなら、日々、私共が感じていく信心。感じていけれる信心。ね。そこに、信心の進み、・・・、どげん御無礼したっちゃ、それこそ、神様が、その通しをしちゃらんごたる感じ、ね。お気付け一つ、頂けんごつなった時には、もう、いよいよ、怠慢無礼の信心の時です。ね。私共が、本当に、ね。真の信心が分かりたい、おかげを頂きたいと言う願いの元に、信心を進めてまいりますとね。神様が、もう、本当に、その気になって、私共の上に働いてくださる。そして、導いてくださる。不思議な不思議な働きをもって導いてくださる。ですから、それは、なるほど、倒れ転びなのですけれども、楽しいです。神様が、そこにござるかと思うて、そこまで、こうやって行くと、またこう、いざってござる。もうきつかけん、よろよろしよると、また寄って来てから、ほら、さぁ来じゃこてと言うてから、手を引っ張るようにした不思議な働きを感ずるです。皆さん、感じよりなさいましょうが、それを、合楽の人は。ね。だから、それが、感じれれるところまでは、早く頂かなければ、信心は進みませんよ。ね。ちょっと、こちらがご無礼すると、もう、神様のほうが出向いてきてくださるような感じがするでしょうが。そうして、本当のほうへ、本当の事へとおかげを下さる。
今日はね、私、御神前にでらせて頂いたら、その、ちんどん屋さんのごたる、何かこう、楽器を叩いてですね。一つのリズムなんですよ。ほら、ここまでここまでと言って太鼓でも打ってからね。その、子供が、ヨチヨチ歩いてくるところを頂いた。そしたら、倒れた。倒れたら、その太鼓を置いてから、またこう、起こしてやってから、さぁ立てと言うて、まぁ、そのリズムに乗せて、言うなら、こう、歩きならしてござる。信心を進めておってくださると言う。皆さん、それを実感されるでしょうが。ね。それで、なるほど、倒れ転び、場合には、出血する様な事もありますけれどもです、ね。その、神様の、そういう思いに触れるときに、神様が、私のようなものを、このようにしてでも鍛えてくださる。このようにして、本当の事を分からせて下さると、苦しいけれども、御礼が言えるのですよ。それで、今日、教典を開かせてもらったら、この十六節でした。
ですから、ここでは、無常の風という事は、人間が、ね。生きる死ぬるの事ですけれども、無常の風が吹いてきたら、まぁ、どんなに若かろうが、年寄りであろうが、もう、ね。あの人は健康。またあの人は弱いと言う様な事じゃないです。あんな強い人が、それこそ、撃ち殺し立っちゃ死なんごたる人が、ころっと行きなさった、無常の風で。無常の風に誘われたんです、ね。だから、そういう場合であっても、金光大神のお取次ぎを頂いて、お願いをさせて頂くとです、ね。ちゃっと、都合良う、いわゆる、お繰り合わせがいただけれると言う事を、ここで私が、・・・、という事は、そういう不思議な不思議な働き、ね。例えば、仏教などでは、無常の風が吹くと言う、それはもう、当然のことなんだ。これはもう、どうにも仕方が無いことだと、まぁ、説いてありますですね。そるきんち、金光様は、ずーっと、無常の風を嫌い続け、二百までも三百までも、生き続けるという事じゃないですけれども、その、お繰り合わせは素晴らしかです。これはまぁ、出産の時のことを思うと、これは、死ぬも生きるもそうです。もう、本当に、私共は、何時も思うことですけれども、ここで、告別式なら告別式があったり、色んな霊祭があったり。もう、ここ、沢山な、塗板に、もう、一杯の行事があってるでしょうが。けれどもその、行事の、どのようにして、ちゃっとその、おかげを頂いておると言う事ですよ。これはもう、いわゆる、無所の風に時を、神様は、嫌わしておって下さる印なんです。ね。だから、そういう不思議な働きをです。私共が、日々、感じるからこそ、ね。有難いも出りゃ、勿体ないも出てくる。私のようなものに、このようなおかげを下さってという事にまでなってくる。だから、それによって、導かれなかったら駄目なんです。その不思議な働き、不思議なリズムに乗ってです。私共は、倒れ転びしながらでも、やはり、進めていかなければいけない、信心を。本当、不思議なこっじゃあると言うとっただけじゃつまらんて、進めにゃ。進めてくださるために、さぁ、ここまで来い。さぁ、ここまでと、それこそ太鼓を叩いて、リズムに乗せて、調子に乗せて、信心を覚えんごとして、信心を進めさせて下さる。もう、本当に、こりゃまぁ、皆さんが体験済みのことだと思うんですけども。そこをです、そういう不思議な働きを見せながら、一つのリズムに乗せながら、お互いの信心を進めさせてくださるのですから。私共がですね、進んで行かなかったらです。ね。困ります。
昨日も、ある方のお届けでございましたけれども、もう、小学校三年生でしょうか。けれども、まぁだその、汚れたという様な事が分からないそうです。お便所なんか行ってから、汚したまま出てくる。ご飯なんかでも、妙な頂き方するから、こっちの手で、こう頂かんならんち言うて頂きよるそうです。そすと、面倒くそなってから、手掴みで頂きよるそうです。私は、それを聞きよって、本当に、親として、こんなに悲しいことは無かろうと、私は思いましたですね。小学校も三年生です。こらもう、子供じゃなかばい。本当に、子供の病気は親の病気と仰るけん。親がいっちょ、本当で改まらないかんばいと言うてから、話したことでした。私も、知っておりましたが、そげん言うまで、ひどいとは思わなかった。けど、昨日は、本当に深刻な、そんなお届けを聞かせて貰ってですたい。本当に、それこそ、術ない、親として、こんなに術ないことは無かろうと、私は思いました。ね。私共の信心はどうでしょう。ね。五年になった、十年になったと言いながら、ね。いつまで経っても、手掴みでご飯食べる様な事をするなら、ね。親は、どんなにあるだろう。それこそ、親を悲しませる事になるのです。私はもう、信心な分からんけんち。昨日も、ある人が、そんな事を言った人がある。もう、どげん考えたっちゃ、有難か有難かち話は、もう、どうか、そげなこつ言いなさるな、私は、面当てに、面当てに先生が言いよりなさるごたるち言うちから、言いなさるですもん。そらあんた、毎日参って来てから、そりばってん、参って来よるけん、私が言うこつが分かろうもんち言うたら、んにゃ、それが、守れよれば良かばってん、守りよらんけん、先生が言いよりなさるとが、面当てのごと聞こえるち言うてからもう、言うわけですけれどもね。本当に、守らなかったら、信心は伸びません。ね。それも、ただ、守れ守れじゃない。今言う、それこそ、ね。一つの調子に乗せて、ね。リズムを奏でながら、その調子に合わせながら。さぁ、右の足を出せ、左の足を出せと言わんばかりに、この、歩き習わせて下さる。真の所へと、誘導して行って下さる。それに乗らせていただかなければ、私は、本当の信心には進まんし、また、信心が楽しいものになってこないと思うんです。どんな中を通らしてもらいよっても、ね。そういう働きを感ずるから、信心が有難い事になってくる。
昨日、総代会でお話したことでしたけれども、とにかくもう、本当に、合楽の信心は、もう、今朝頂いたかと思うと、もう直ぐ次には、ここではまた違う。もうとにかく、間に合わんです。けれども、間に合わんでも良か。それは間に合わんでも良かから、しかし、また、頂けんとじゃけん、ちゃんと、頂くとだけは、いただいとかにゃいかんと言うて、言うた事でした。
最近、ここで、いわゆる、黙って治めると言うことの、素晴らしい体験を、皆さんが、本当に、日々、もう、黙って治めることの素晴らしいことに、驚いておられますね。その、小さい事柄の中から、ね。それが、段々、身に付いて来る。段々、身に付いて来る。昨日の、奉修委員の方達の頂いた御理解にですね。例えば、大海のような信心をせよと、ね。言うならば、深い信心をさせてもらう。言うなら、黙って受けると言う、黙って受けていくという事。だから、今度は、これをその、深くだけではなく、広く頂かなければならない。いうなら、大きなおかげを頂かなければならない。そのためには、私共の心が、大きくならなければいけない。ね。そすと、これは、黙って受けると言うだけではなくてです。広がっていくことの為に、必ず、障害があると仰る。広かって行くために、広げていくためには。ね。
ここのお屋敷は、六反もあるから、もう、もうこれで、ほう六反もあるならち思いよったけれど、もう、狭うなった。そこで、広げなければならない。そこで最近は、毎日のように、その係り、永瀬さんとか、久富正樹さん辺りが係りをしておりますから、あの、近所の田んぼの方の所へ相談に行かれる。ね。あのように気張るから、笑ってくださいと。ところが、そこに、色んな障害が、やっぱ、出てくるわけです。いわゆる、その障害を乗り越えていかなければ広げられんのですよ。ただ、簡単に、こうこやって、押しやっていくと言うような訳にはいかんのです。広がるという事は。心が大きくなるという事は。ね。心が大きくならねばいけません。だから、大きくなる、広がっていかなきゃ、広げていかなきゃならない。そこに、ほんなら、障害になるものは、どこにあるかというと、自分の心の中にあるのです。ね。
私は、そのことを説かせていただきながら、はぁ、もう、次の信心が、こうやって教えられておるなと思います。黙って治めるだけじゃいかん。黙って治めるのだけじゃいかん。なるほど、黙って治めることによって、深くはなってもです、広くなることのための、自分の心が、いよいよ、大きくなっていく事の為には、必ず、広がっていくためには、障害が、絶対にあるという事。ね。ですから、その障害を、いわば、乗り越えていくと言うことからね。または、それを、障害物を取り除いていかなければならない。そういう、取り除かなければならないものは、自分自身の心の中にあるんだという事なんです。
そこでです。ほんなら、心の中に、そういう障害なものがあるという事を、今度は、分からにゃいかんのです。ね。高橋正雄先生の、いわゆる、「見ること見ること、自分を見ること。」素晴らしいことだと思いよったけれどね。これは、あの、もっと、その奥があるなという事を、夕べの御祈念の時に感じたんです。
夕べ、西岡さんが、夜の御祈念を勤められて、お話しておられました。それで、私が、その、お話を聞きながら御祈念をさせて頂いておりましたら。例えばね、綺麗な、水晶のように澄み切った、この水の中にね、こう石が、石庭をしとるようにこう、はっきりそれが見える。それの所を頂いた。はぁ、どげな事やろうかと思うたら、ね。いわゆる、自分を見ること見ることなんです。どうでしょうか。ね。そんなら私は、どこば改まったなら良かじゃろうかと言うて、開き直るような人がありますでしょうが。改まらにゃんばい、改まらにゃんばいち言うて、自分を見ること、自分を見ることち、いっちょん、自分が見えない訳です。そして、私は、いっちょん、その、言うなら、悪かこつはしとらんごたる風に言う訳。まぁ、悪かこつち言うことは無かろうけれども、ね。それは、なぜかと言うと、心が濁っておるから分からんとです。なるほど、幾ら、見ること見ることち言われたっちゃ、本当、分からん筈だと思いました。だから、それだけじゃいかん、見ること見ること、自分を見ることだけでは、ね。思うばってん分からん、いっちょん。ほんな、そこんにきまでしか、奥のほうは分からん、ね。そこで、やっぱり、本気で、清まらなければいけないという事が分かります。限りなく美しゅうなろうという事に精進しなければいけません。ね。自分の心が清まるほど、自分の心の中の、言うならば、物が、一目瞭然に見えてまいります。ね。人に聞くことは要らんです、だから。
私は、どこば改まったら良かじゃろかてんなんてん。先ず、だから、清まることなんです。ね。清らかな水の中なら、それこそ、深いほど、底まで、そこのように見えるように、私共の心が清まって行けば行くほどにです、ね。いわゆる、障害になるもの。大きくなっていく事のためにはね。大きくなろうと思うたら、もうそこに、障害が、必ずあるんです。その障害を取り除いて進まなければ広まられんのです。ね。その為にはです。その障害が、どこにあるかという、心にあるのです。あるけれども分からんのです。磨かにゃいかん、清まろうとしないから。限りなく美しゅうなろうと、口ばっかりだから。限りなく美しゅうなることに精進させていただいたらです。自分の心のなかが、一目瞭然に分かってくるようになる。なるほど、取り除かなければならんものが、はっきり分かってくる。ね。それが、楽しいことになってくる。ね。
だから、今日は、ここに、三つ、ね。深くなること。これはもう、黙って治めると言うことになったらですね。それこそ、もう、黙して語らないといった様な事。もう、それこそ、もう、あの人は、どこまで深いやら分からんというでしょうが、そういう人の事を。ね。だから、深くなっていけるです、必ず。ね。だから、今度は一つ、大きくならにゃいかんです。ね。それこそ、大きくなる為には、必ず障害があるです。だから、その障害を取り除かなければ、大きくはなっていけんのです。ほんなら、その障害というのは、どこにあるかというと、自分の心の中にあるとです。そればってん分からん。それは、濁っておるからだという事になるのです。自分自身が濁っておるから分からんのです。そこで、その濁りを清めようとする働き。ね。清まっていくに従って、取り除かなければならに物が、はっきり分かってくる。だから、そういう生き方にならせて頂く時です。いよいよ、例えば、神様がね、それこそ、無常の風に時を嫌わすほどしの不思議な働きを、日々の中に感じ取ることが出来るのです。ね。だから信心は、いやが上にも進んでいく。その不思議な働き、神様の不思議な働きに導かれながら、しかも、そこには、いうならば、ね。そのリズム入りである。相方がるようなもの。だから、その調子に乗って進んでいけるのであります、信心が。
無常の風は時を嫌わぬと言うが、金光大神の道は、無常の風が時を嫌うぞ。もう、医者は助からんという。それを、助けて頂いたと言う様なのは、無常の風を、神様が、ね。他のほうさん、吹きやって下さったようなものなんです。そういうことを、ここでは、言うておられるのでしょうけれども。そういう不思議な働きを、合楽では、日々感じさせて頂ける様な、言うなら、教導を、お互いが受けておるということです。ね。昨日の、特別奉修委員の方達の、一人ひとりが、そういう体験の持ち主である。もう本当に、どんなに考えても、不思議で不思議でたまらんという様な、ね。そういう不思議な、もう、それこそ、リズム入りで、そういう教導を受けておられるから、有難いのである。
そこから、いよいよ深い、そして大きいおかげが受けられる為に、いよいよ、清まらせていただくことに焦点を置いて、おかげの邪魔になるもの、ね。おかげを阻害するもの、そういう障害になるものを、自分の心の中に発見させて貰うて、それを取り除いていくという事に、精進させてもらわなければならんことが分かりますよね。